怪談「徒然草子」

徒然なるままに、きいぼうどと心にまかせて、古典狂の怪談童話創作家の結果的にここだけの怪しいかもしれない話

いい国住みたい貧福論は君主論(雨月物語貧福論感想文)

  いい国住みたい貧福論は君主論

 

 

どんな名刀でも千人を相手に出来ないが、金の徳ならば天下も従う。

 雨月物語の貧福論の主人公岡左内はそのように考える倹約の武士です。

 刀一本と天下を従わせるお金って一緒にしちゃだめじゃないと思う方もいるでしょう。

 細かいことは良いのですよ。

 貧福論は、お金の話ではなく、人の上に立つ人への願いです。

 その願いは、左内と金の精の会話で書かれます。

 金の精はなげきます。

 金は七宝の最上の物なので、ケチだから金に恵まれるわけじゃない。

 晋のセキソウや唐のオウゲンポウのようにいやしい者が富貴に恵まれている者ではないと嘆くのです。

地の利、天の利を得た者が本当の富貴に恵まれると言います。

 お釈迦様の話はよく七宝で飾られたものが出てきます。

 七宝で飾られていたら最上級と思っていい物です。

 その最上が金になります。

 慳貪(けんどん・ケチですね)な者は自分をお金に貢いでいるだけなので、富貴とは程遠いと強く言います。

 惚れたら負けと言います、それはどうか分かりませんが、間違いなく貢いだら負けでしょう。

 貢ぐとは負けてお腹見せてわふわふ言う犬のようなものです。

 犬だったら可愛いですが小父さんだと嫌ですね。

 お金に媚びるハエ男にハエ女ですね。

 お金を得ることはできても、金の輝きを扱うことが出来ないというのです。

 金の精は天の利もいると言っています。

 運がなかったら清貧の賢人になれと言うのです。

 富の神が人を選ばないのはギリシャ神話の時代からです。

 目の見えないプルートスはヘラクレスに相手を選ばない愚か者と罵られます。

 プルートスは人を択ばないように、目をゼウスに見えなくされたのに、それを責められる。

 プルートスまじ可哀想。

 富の神の選択基準の悪さは今も昔も一緒ですね。

 それが富なのでしょうね。

 宝くじ当たらないかな。

 誰でもいいなら私でもいいじゃない。

 ええと。

 あと幸運にはうしろ髪がないので、幸運の女神は前髪だけのモヒカンとか、けっこうきてる見た目が多いですね。

 運とは恐ろしく歪な物に見えたのでしょう。

 金の精も自分には感情もないし、善悪も判断しないと言っています。

 天の利、地の利を得た人は誰でしょうか。

 太公望がそうだと言います。

 太公望(作中では呂望)は土地を豊かにして、国を豊かにして、人々を豊かにしました。

 それが富貴を得ることだと言います。

 富貴とは奪うことではないと言うのです。

 感情ないっていうわりには、金の精さん感情的です。

 まあ、大量殺人者をみとめる神様よりかはましですかね。

 貧福論はお金の話ではなく、政治の話です。

 富貴とは個人の問題だけでなく、国の問題でもあるのです。

 いいえ、国の話です。

 国とは何か?

 国境線を引き、そこに銃を持った兵隊を配置することではないです。

 共に生きていく運命という「いと」でつながれた人たちだと思います。

 国は人です。

 なので、富貴とは自分を豊かにすることではなく、「自分たち」を豊かにすることです。

 政治家が街頭演説しているときに貧福論を読みたいですが、捕まりますね。

 逮捕容疑、街頭演説を貧福論を読んで邪魔したこと。

 政治家に求めることはたくさんありますが、皆で幸福になるんだという覚悟が欲しいなと思います。

 不幸は分けやすく、幸福は分けがたいと言いますが、大きな幸福を皆で分け合えるものが富貴に恵まれている人なのです。

 富を分けることは単純ではありません。

 富は分けるもので、ばらまくものではないのです。

 人の上に立つとは富をうまく分けること、それが富貴だというのです。

 金の精さんはとても感情的です。

 富には魔力があります。

 富に自分を貢いだものが愚か者なのは、富貴の魔力に惑わされて、自分を見失っているからです。

 もしかしたら富の操り人形なのかもしれません。

 なんか、徒然草みたいな文になりましたね。

 今笑った人は私の仲間。

自己啓発の本みたいですが、教養深いのが特徴です。

 短いですし、他の物語も面白いので読んでみてほしいと思います。

 

 

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