ホルマリンプールに浮かぶ青春(読書感想文)
夏らしく読書感想文です。
本は「死者の奢り」大江健三郎です。
“死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押し付けあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。”
大江健三郎の死者の奢りはこのように始まります。
何の話だと思いますか?
死体の入ったホルマリンプールの話です。
大江健三郎を読んだことはありますか?
ノーベル文学賞の作者が書いたので、都市伝説でも三流ホラーでもありません。
死者の奢りは、死体洗いではなく、古い黄褐色のホルマリンプールから新しい白濁したホルマリンプールへ選別した死体を移動させる話です。
ホルマリンの死体と、希望も絶望も持てない睡眠不足の真面目な文学部の主人公、お腹の子を堕胎するためのお金を稼ぐために死体運びのバイトをすることにした女学生、そして、三十年この死体処理室で仕事している孫のいる男の管理人が対比されます。
昭和三十二年の作品ですが、生きているけども、生きている実感があるのかないのか分からない学生は今でも共感しやすいです。
なんか悲しいですね。
おいしい物を食べれば美味しいし嬉しい、面白い物を見れば笑うし楽しい。
ただそれだけでは満たされない物、あるのかないのか分からない物。
蜃気楼の中の宝箱にあるような希望。
そんなものに振り回されているのです。
それは、百年前も百年後も同じでしょう。
死者の奢りがホルマリンプールの始まりという説があります。
死者の奢りのホルマリンプールは濃褐色です。汚れているのです。
そして、死体のある部屋はホルマリンが揮発する臭いがしています。
ホルマリンが揮発していくのを大江健三郎は知っているのです。
プールのホルマリンが揮発していく臭いで充満しているということは、それが物語だと明示されているわけです。
揮発していくのですから、補充の描写がないとおかしいですからね。
濃褐色の死体たちは雄弁に語ります。
時代が時代ですから、戦争に行った死体もあります。
その体には銃痕があるのです。
そして、その死体は良く語ります。
死体処理室にはたくさんの死体があるので、たまにプールから出て自由になる死体もあるとジョークも言います。
そして言います。
次の戦争は君たちの番だと。
主人公は戦争を知らない子供ではなく、戦争の中で育った子供です。
明日の見えない空気を吸って、大きくなったのです。
そして、戦争は定期的にあると確信しています。
私の小学生の時の社会の先生の口ぐせは、君たちは必ず戦争に行くでした。
戦争は定期的にある物だったのです。
今は物語の江戸時代のようにふわふわと平和に包まれています。
少女の死体が運ばれます。
その少女の死体は、保存のための処置をされ、ホルマリンプールに入っていきます。
まだ生々しいこの死体は時間が経てば黄褐色になるでしょう。
花がしぼんでいくような感じです。
死体は物ではないのです。
主人公は死体と対話するようになります。
死体は話さないので、鏡のように反射するだけです。
生きている人と違います。
生きている人には「自分」という膜があります。
そしてその膜は物事をいびつに反射しますが、死者にはその膜がありません。
上手く反射されずに嫌な反射をする生きている人とうまく反射される気がする死体たち。
死体との対話によって生きている人との距離が広がっていきます。
死体と向き合えば向き合うほど、生きている人間とうまく向き合えなく感じるようになります。
大江健三郎の作品の登場人物は切れ味が鋭すぎるので、死体の方が温かみを感じるかもしれません。
主人公もよく砥いでありますし、周りの人物もよく砥いであります。
なので、向き合えば火花が散ります。
人間関係ってたしかに疲れますけども、ここまでは疲れないなと思います。
なんかこの読書感想文書いていて、世界は自分の鏡というか、自分の目で世界を見ているのだなと感じました。
もっと気楽に、そして真面目に世界を見るのが必要かなと思いましたね。
この死者の奢りの世界なら希望はないかなって思ったりもします。
大江健三郎の若い時の作品ですよね、若い時ってこんな感じでしたっけ?
大江健三郎はずっと切れ味鋭いですね。
そして、事件が起きて、死体たちは処分されるべきものになります。
死体たちの尊厳や個性はその事件によって剥ぎ取られ、重い処分が面倒な物に変ってしまうのです。
奢りとは贅沢という意味です。
処分されるだけなのに、死体なので少しですが丁重に扱われるので、乱暴に扱いにくいので贅沢だなと文句を言われます。
死体たちは贅沢でやっかいな物になります。
約五十頁ですが、大江健三郎の鋭すぎるかなと思える感性を充分に味わうことが出来ます。
この本を手に取って心に不快な切り傷をざくざく作ってもらいたい。
わざわざこのブログに来て下さった貴方を私は勝手に大切に思います。